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コラム(抜苦与楽)

医療や医学という言葉の無い時代から、医なるものの使命は「抜苦与楽」すなわち、「苦痛を取り除き、心地良さを与える」ことです。しかしながら、近代医学では「抜苦」のみが強調され、「与楽」は忘れ去られた存在となっています。

われわれ以仁会は、設立当初から、抜苦与楽のバランスの取れた医療を目指しております。以下に紹介するのは、与楽の活動の一つである「こころの中の小さな泉プロジェクト」で使用するオリジナルテキストです。

「空の青さを」

 カエルは井戸の底で目をさますと、まっさきに頭の上の小さな丸い空を見あげます。
灰色の空から降る雨がカエルの頬を濡らすと、小さなカエルは「お空が泣いている」と思って自分も悲しくなります。
真っ青な空からこぼれる光が井戸の底までとどくような日には、小さなカエルは「お空が喜んでいる」と感じて自分もうれしくなります。
虹のかかるときは、ほんのかけらしか見えなくても、感動で目に涙をいっぱいためて、ずっと見つめています。
 秋が過ぎてめっきり冷え込んできました。こがらしがたべものと枯葉を井戸の中に吹き落してくれます。
「ありがとう、こがらしさん。また旅に出るの?」
「ああ、冬将軍のおともで、南の国を少しばっかり冷やしに行くのさ」
こがらしはピューピューと口笛を吹きながら立ちさっていきました。
 その晩、岩棚にこがらしのプレゼントの枯葉をしきつめてカエルが横になっていると、月がひょいとのぞきこみました。
「おや、井戸の中は暖かいようだね。仲間のカエルたちはみんなとっくに冬眠しているよ」
「あ、お月さま、照らしてくれてありがとう。ちょっと待ってね、明るいときじゃないとそうじができないから」
カエルは大急ぎで井戸の水に浮いているよごれをすくいとり、まわりのごみをかたづけました。井戸水はもとの清らかさをとりもどしました。
「なんでおまえはそんなに頑張るんだい?」と月はあきれてたずねました。
カエルは困ったように首をかしげると、
「ボクにもわかんない。でもこれがボクの仕事だから」と答えました。
 雪はしんしんと降り積もります。井戸のある草原はみごとな雪原に変貌をとげています。
井戸の中にも雪は降りこみますが、井戸の底に降り積もることはありません。
静かにときはすぎていき、やがて春のひかりが井戸の中にもさしこむようになりました。
 このあたりをなわばりにする若い鷹が、ときどき井戸の底のカエルに話しかけます。
「登っておいでよ。そうしたらいろいろな所に連れて行ってあげる」
「ありがとう。でも壁がつるつるで、ボクの力じゃすべって登れないんだ」
「ふうん、おれも井戸の中では翼を広げられないしな、まあそのうちにいい知恵でもうかぶだろうよ」若い鷹は飛びさっていきました。

 ウンウンとケヤキが顔を真っ赤にしていきみます。エイエイとツタも息を切らせて頑張ります。やがて井戸の上からツタのつるがのびてきました。つるが井戸のまん中あたりにとどいたとき、ボコッと井戸のカベに穴があき、ケヤキの根が顔を出しました。
ウンウン、エイエイ、つると根は力をあわせて井戸の底に近づいていきます。
 その前の日、ツタとケヤキを前に、若い鷹が頭を下げていました。
「あのカエルは、あんな狭い世界しか知らないまま、一生を終えなければならないのです。おれはあのカエルに、なんとか広い世界を見せてあげたいのです」
もちろんツタもケヤキも面食らいました。それでも誠意というのはいかなる状況でも伝わるようです。
「鷹が鷹であることを忘れているのだから、われわれもツタやケヤキを超えた存在にならなければ、な?」とおたがい顔をみあわせてうなずきました。
 そうしたいきさつを知らず、カエルはウンウンとエイエイの成果の頑丈な柱をつたって地上に出ました。そこには背中をさしだした若い鷹のすがたがありました。
空に舞い上がったカエルには、見るもの聞くものすべてが目あたらしく、夢中であたりを見回しました。
「すごい!空ってこんなに広いんだね。でも、ボクの小さな丸い空と同じ色をしている!」
 真っ青な空と海のただなかを、鷹の翼がすべっていきます。やがてかれらはちいさな島におりたちました。真っ白な砂浜がひろがっています。
そのとき、急にドスンと大きな音がして砂浜がゆれました。カエルのあまりにもおどろいたさまを見て、鷹は笑いころげました。
「これはヤシの実だよ、ホラ」といって鷹はヤシの実に飛び乗りました。ヤシの実は表面がツルツルしています。鷹はそのままの姿勢でツーとすべって反対側に落ちました。
「イテテテ…」こんどはカエルが笑いころげる番でした。
 その日一日、カエルと鷹はヤシの実に飛び乗ったりよじ登ったりして遊びました。
楽しいことは長つづきしないものです。陽が沈みはじめました。
「明るいうちに帰らなくてはね。おれたちは暗くなると目が見えなくなるから」
「あわてなくていいよ。君の力になれるとうれしいな。帰り道は覚えている。だってボクはカエルだから」
 若い鷹は太陽が地平線の下にもぐる前に井戸に帰りつきました。
「初めてのことで疲れたんじゃないか?」
「疲れる暇なんかなかったよ。ありがとう、すごく楽しかった。でも、ボクが一番うれしかったのは、ボクはもう一人ぼっちじゃないってわかったことなんだ…」
 それからかれらはおりにふれ、さまざまな所に出かけました。
あるときは人間の世界へ探検に出かけたこともあります。車にひかれそうになったカエルを、間一髪のところで鷹がすくいあげたこともありました。
遊びすぎて帰りが遅くなり、カエルが星座をたよりに盲目飛行の鷹を誘導して帰ってきたこともあります。
 そんなある日、次回の予定に関してめずらしくカエルが注文を出しました。
「こんどはこの国でいちばん高い山に行ってみないか?君がオーケーだったらだけどね」
「もちろん異存はないさ。ただちょっと体を鍛えてからでなくてはな。きみも皮膚を鍛えておいたほうがいいぜ」
そんな会話を交わしてかれらは別れましたが、カエルが井戸の底に着いたときに、遠くでなにかがはじけるような音がしました。
 散弾銃というのは弾だけではなく命も散らしてしまいます。最も大切なものを失って、空の青さを忘れたカエルには、もうなにをする気力も残されていませんでした。

 生きているのか死んでいるのか分からない数か月を過ごしたある日、カエルは若い鷹との約束を果たすために井戸を出ました。
カエルの手には若い鷹の形見の羽が握られています。カエルは鷹の羽にむかって語りかけました。
「いままでボクはどこに行くときも、いつも君に連れて行ってもらったけど、こんどはボクが連れて行ってあげる」
カエルはこの国で一番高い山にむかって歩きはじめました。
 それは肌の弱いカエルにはとても厳しい道のりでした。山にさしかかってすぐに、とがった岩角でカエルの体は傷だらけになりました。突風にあおられせっかく登った斜面を転がり落ちたこともあります。大雨のあとの鉄砲水で下流まで流されたこともありました。
中でも一番つらかったのは気温の低下です。凍えるような山の寒さは、ようしゃなくカエルの体力をうばっていきます。しかしカエルにはからだをあたためるてだてがありません。
カエルは毎晩鷹の羽を抱いて寝ました。
 一体どれだけの時間がたったのでしょう。日にちを数えることすら忘れたころに、ようやくカエルは山の頂にたどり着くことができました。
「あの空の色だ」カエルはつぶやきました。
井戸の底から見上げた空の青、鷹の背中からながめた空の青。かつてカエルの胸をときめかせた真っ青な空がみわたすかぎりひろがっています。そのただなかに自分が浮かんでいるような不思議な感覚。
 そのとき、空のかなたにぽつりと小さな黒い点があらわれました。その点はしだいに大きくなり、徐々に若い鷹のすがたになりました。鷹はまっすぐカエルめがけて飛んできます。そしてカエルのそばにふわりと降りたつと、だまって背中をさしだしました。
「ありがとう、やっぱり来てくれたんだね」
カエルはうれしさで胸がいっぱいになりました。
カエルを背中に乗せた鷹は、どこまでもどこまでも天高く翔けあがり、やがて、真っ青な空にとけていきました。

 その年の冬、井戸の底には雪が積もりました。月たちは、カエルがいたから井戸の中が暖かかったのだと、そのときはじめて気付きました。

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