2007年12月
 「クリーブランドの悲劇」を大多数の人々が忘れても、記憶から拭い去れない人たちが居た。接収された美術品の本来の持ち主たちである。中には代替わりをした二世や三世も居たが、一族の無念は確実に語り継がれていた。そこに起こった今回の大惨事である。たった一年で忘れられるはずがないではないか。

 それは、きらめく陽光の中を春の雪が舞う珍しい日であった。帰宅した彼らを待っていたのは、かつて土足で持ち去られた美術品の数々であった。

 「まあなんだ、いわゆる大脱走ってやつだな」と奴は言った。「あとは二束三文のガラクタを山ほど詰め込んでドカンよ。しかし屏風ってやつはどうしてあんなに鈍いのかね、駆け出すとすぐに開くんだぜえ」と言うと、奴は壷の口に酒を流し込んだ。
「いくら粉々になったとはいっても、専門家が見れば偽物であることはすぐにばれそうなものだが…」と私が言うと、「まともな鑑定眼のあるやつなんか居ねえって事は、はなから分ってたさ」と奴は言った。
 「あちらさんにも価値の判る奴がいるんじゃなかったかな?」と私がおどけて言うと、「何事にも例外はあるって事さ」と、奴は心から愉快そうに笑った。
2007年11月
 今年もまた開院記念の11月が巡ってきました。開業当初は肩に力が入って、自分の医学知識を(バナナのたたき売りのように)並べ立てていましたが、近頃ではもっともっと大事なことを、患者さんに教えてもらう場面が多くなってきました。
 つい先日、今年80歳になるGさんが、ご主人の亡くなられたことを伝えに見えました。彼女のご主人は、それはひ弱な人だったそうです。親戚もみんな、ご主人は長生きできないだろうと言っていたそうです。それが、Gさんの言葉をお借りすれば、「卒中になった途端に元気になっちゃって」25年間も寝たきり状態を続けられたそうです。「右の麻痺だったから、体は動かさないし、しゃべんないし、ボケーッとして何考えてんだか分かんないし、一生懸命面倒見ててもこれでいいんだかどうだか自分でも不安になるし、ホント地獄でしたよ。」とGさんは言います。ある日堪らなくなってGさんは大声で泣いてしまったそうです。するとそれを見ていたご主人が途切れ途切れに、「かんにんしてくれよ…」と初めて口を開いたそうです。「不思議ですね、それから夫の身の回りの世話が苦ではなくなりました。」とGさんは言いました。90度以上腰の曲がったGさんの後姿を見送りながら、人間というものをさらに好きになりました。
2007年10月
 40年ぶりに高校の臨海学校が行われた舘山の寮を訪れた今年の夏、道を尋ねた店から出た私たちの前を、額の禿げあがった、無精髭の中年男が車椅子を押して通り過ぎていきました。この男性の家の厳しい経済状況は、彼の草臥れた"なり"に良く表われていました。車椅子には、ミイラのようにやせ細った手足を妙な形に捻じ曲げた、母親と思われる老婆が乗っていました。道路の凹凸の震動が腰に響くらしく、わずかな距離を移動する間にも、何度か苦痛の表情を浮かべていました。額に刻まれた深い縦じわが、彼女の過ごしてきた辛い日々を物語っているようでした。
 いくつかの角を曲ったとき、突然目の前に花の盛りを迎えた百日紅の見事な並木が現れました。母親の表情が緩み、息子になにやら声をかけました。それが良く聞き取れなかったようで、息子は母親の顔に耳を寄せました。母親は笑顔で、思いがけず素敵な花を見ることができた喜びを息子に伝えたようです、彼は何とも言えない嬉しそうな表情を浮かべました。これは彼が、外に出ることができない母親のために仕掛けたささやかなサプライズだったのでしょう。良かったね、良かったね、お母さんに喜んでもらえて良かったね、ただの通りすがりの傍観者の私の胸に熱くこみあげて来るものがありました。この親子の交す微笑みよりも美しいものなど、この世にあるはずがないとも思いました。
2007年9月
 ハタチョと気がつくと、今回が50回目のトップページコラムです。切れの良いところで皆様からのご意見ご質問にまとめてお答えいたします。まず当院のホームページは医療機関らしくないとよく言われます。不真面目だと怒られたこともあります。医者の品位を貶めると非難されたこともあります。しかし、インターネットは病気に関する情報で溢れています。当院のホームページにアクセスできる方は、どのサイトにもアクセスできるわけで、似たような知識を書き連ねても仕方がないのではないかと考えています。それよりはこのホームページでなければ読めないような記述を増やしていきたいと思っています。
 それには理由があります。私は以前より、医者としてよりも"医者でもある人間"として患者さんに接していきたいという気持ちを持っています。暇な頃にはジャブの応酬ならぬジョークの応酬で、自分も含めてみんなが元気になるような外来診療を続けて来れましたが、患者数の増加に伴い自分の理想とする医療からは徐々に遠ざかっていきました。一人当たり2〜3分の診療時間でどうやって人間関係が作れるでしょうか?もちろんいくら短くとも医学的なことはその時間内で処理せざるを得ません。重要なのはそのあとに二言三言交わす世間話だと思っているのに、現状では実行することができません。実はこのホームページは本来外来で行う雑談の代わりなのです。あ、もうページが尽きた。
2007年8月
 白神山地の山懐に抱かれた小さな町が堀跳人(ほりはねと、通称ホリハネ)の生まれ故郷です。臆病で泣き虫のホリハネをいつも守ってくれた強いお父さんが突然亡くなり、これから僕がお母さんを守っていかなければならないんだと、自分を鍛える意味で、あの恐ろしいまちはずれの鎮守の森のお社に、ホリハネはたった一人でやってきたのです。そのときです、空は突然真っ暗になり、大粒の雨が叩きつけるように降り始めました。一瞬の閃光と雷鳴がお社を包み、ホリハネは目がくらんでしばらく何もみえませんでした。ふと気付くとお社は真っ二つに裂け、まん中には地下へと続く洞穴が口を開けています。ホリハネが恐る恐る歩を進めると足もとからポロンポロンと音がこぼれます。外の気配が届かない辺りまで降りてきたとき、急に三人の妖精が前に立ちはだかりました。彼らはそれぞれ"へだてびと""こばみびと""とざしびと"と名乗り、ホリハネの周りで踊りながら「結界のテーマ」を歌うのでした。さらに先に進むと、奇妙ななりのおじさんに出会いました。「おじさんは誰なの?」とホリハネが尋ねると、「わしか?わしはな、こっちの国では"神"と呼ぶが、あっちの国では"悪魔"と呼ばれておるよ、しかしてその実体は商人じゃ」と答えました。やがて彼らの周りには、「買ってください、買ってください…」と低音でつぶやく人たちが湧いてきました。(ただいま製作中のミュージカルの冒頭です)
2007年7月
 I君のようなゴツイ男から、切なさを頒けてもらうとは思ってもいませんでした。「先生、これ読んで、家に同じのが二冊あるんで、これあげるから」と手渡されたのは、浅田次郎の「地下鉄(メトロ)に乗って」でした。浅田次郎の作品は、alopecia virus をうつされる様な気がして(あっ、もう感染っているか!)今まで手にしたことはありませんでしたが、今回期せずして目を通すこととなり、いっぺんに彼のファンになりました。切ないのに温かい、哀しいのに懐かしい、人間って捨てたもんじゃないよね、と、自分で自分に言い聞かせるような、一種独特の読後感を味わいました。
 T先生から、沢木耕太郎の「深夜特急」はとにかく面白いから是非読むようにと勧められた時も、自分自身の青春とオーバーラップする部分の多さに驚きながら、かなりのページ数であるにもかかわらず一気に読み切りました。Hさんお勧めの、村上春樹の「海辺のカフカ」も読み終えてからしばらくカフカ離れができず、社会復帰するのにそれなりの時間がかかりました。やはりみんなが良いという作品にはそれだけの不思議な力があるのでしょう。それにしても何でみんな僕の顔を見ると「本を読め」と言うのだろう?
2007年6月
 男の子の常として、私は父に反発して生きてきました。父はすべての面で私より勝っており、乗り越えることのできない大きな壁として、いつも私の前に立ちはだかっていました。ある年の夏、湾の対岸の岬で待つように言い置いて、父はスタスタと海の中に入って行きました。風の強い日で、波の間に見え隠れしていた父の頭は、すぐに浜から見つけることができなくなりました。指示された岬に急行し、ドキドキしながら目を凝らす視線の先に、ポツンと父の頭の見えた時の嬉しかったこと。父は息一つ切らさずに海からあがってきました。スキーは県の大会で優勝する腕前だし、鉄棒は大車輪ができるし、要するに私ができないことをすべて軽々とさりげなくやってくれちゃうのです。子供のころはそれが多少とも自慢でしたが、後年始めたボーリングもゴルフも完敗するに及んで、さすがに複雑な感慨を抱くようになりました。

 その父と自分の力関係が、もうすでに逆転しているということに、ある日突然気づくのです。打破すべき手強い相手である父が、実はもう、いたわらなければならない存在なのだ、ということを知ったときのものすごい寂寥感。大多数の男が共有するこの手の寂しさを、女性は全く感ずることなく人生を過ごしていくのでしょうか。6月23日、生きていてくれたら、父は82歳になります。
2007年5月
 猛烈サラリーマンや企業戦士という言葉がありました。頑張らないことが妙にもてはやされる昨今、こうした言葉はいつしか姿を消していきました。

 Kさんが初めて当院を受診したのは今から10年ほど前、右足の複雑骨折でした。本来であれば十分に腫れきったところで巻くギプスをその日すぐに巻いて、翌朝早くヨーロッパに旅立って行きました。パスポートには出入国の際にスタンプを押すスペースが40ページほどあります。頻回に日本と海外を行き来する貿易商でもこれで足らないなどということはまずありません。ところがKさんのパスポートは限度いっぱいの24ページを追加しても足らなくなりました。一度出国すると当分帰れず、その間に訪れる国の数も半端ではありません。たまに帰国する際に顔を合わせると容貌はいよいよ怪しくなり、どう見ても国籍不明です。会社は名門のM造船で、仕事は世界を相手のプラント輸出です。海外の要人と酒を酌み交わすのも重要な業務となりますが、持病の糖尿病や不整脈のことを気にする暇もありません。中東戦争のときは現地にとどまり、自分の手がけたプラントを爆撃できるものならしてみろと、空を見上げていたそうです。

 みつわ台の酒屋で目の前に見慣れた背中がありました。一升瓶を抱えた主治医と、大きなビールのケースを抱えた糖尿病の患者が、レジの前に並んでいる光景は結構笑えるものでした。医者を天職と心得る私が唯一憧れているのがKさん的人生です。いいな、いいな、
2007年4月
 中村好文という才能溢れる建築家がいます。各分野のプロ中のプロを紹介するNHKの「プロフェッショナル」という番組にも取り上げられ、建築関係のみならず、芸術雑誌でも特集を組まれるなど、氏のユニークな活躍に注目が集まっています。家も家具も、彼の作品はいずれも軽やかで、心地よく、体だけではなく心にもなじみます。まるで、重さを伴ったモノであることから解放されて、「家というコト」「家具というコト」を楽しんでいるようにさえ思えます。氏と同い年の私は、彼が世に出るずっと前からその仕事に惹かれ、古くからのファンを自認しています。

 話は変わりますが、私は古いものが好きで、その縁で目白の「古道具坂田」を知りました。そこは一般的な古美術店とは異なり、店主の坂田和實氏の独特の感性を通して選び抜かれた品々がさりげなく並べられており、その不思議な空間に身を置くためだけにでも、はるばる千葉から出掛けて行く価値があります。その坂田氏が茂原の山の上に建てた小さな美術館が「as it is」で、以前にも
トップページコラムに書いたことがあります。それを読んだかかりつけの患者さんが「あの美術館を設計したのは、私の弟なのですよ」と言われて、私ははじめて彼女があの中村好文氏の姉であることを知りました。つくづく世の中は広いようで狭いものだと感じました。
2007年3月
 大変な目に遭いました。というか、今まだ大変な目に遭っています。電源を入れてもパソコンがウンともスンとも言わないので修理に出したところ、初期化されて帰ってきました。コツコツと作りためた俳句も、心血を注いだ歌詞も、膨大なデーターも、苦労して書き上げた原稿も、大事なメールも、想い出の写真も、すべて消去されてしまいました。バックアップをしていなかった自分が悪いと言われれば返す言葉もありませんが、このショックは計り知れないものがあります。子供のころ飼っていた犬が死んで、あまりの悲しさに、もう二度と犬は飼うまいと決心した時と同じ、激しい喪失感に襲われました。

 それでも犬と違って、パソコンは二度と使わないというわけにはいきません。自分のようなコンチ(コンピューター音痴のこと、友人の木村君の造語)でも、意外なほどパソコンに依存して仕事をしていたことがわかりました。とくに困ったのはメールアドレスがすべて消えてしまったことです。メールが届くたびに一件ずつ気長に登録するしかありません。魚が餌に喰いつくのをじっと待っている釣り人のような気分です。さらに、消えてしまったソフトを再インストールする際にトラブルが頻発して、その都度馬鹿みたいに無駄な時間を費やさざるを得ないことも腹が立つことの一つです。ソニーなんか、でえーっきれーだぁー!
2007年2月
 私は一人暮らしのお年寄りに、自分の携帯電話の番号を教えていますが、それを聞きつけた女性が文句を言ってきました。「同じ患者なのに差別するのはおかしい。こんな不公平を見過ごすわけにはいかない。出るとこに出て訴えます!」と、すごい剣幕でした。この手のクレーマーは一定の頻度で襲来しますので、最近では本人の気の済むようにさせています。きっとしばらくすると保健所や県の医務課から、困ったような声で電話が掛かってくることでしょう。しかし、全員の患者さんに公平に緊急連絡先を教えると、大変なことが起きます。仮に一人の患者さんが10年に一度だけ電話をしたとしても、私の携帯には毎日20件以上の電話が掛かってくることになります。年に一回であれば一日当たり二百数十回にもなります。緊急電話は通常時間外に掛かってくるものですから、時間的にも肉体的にも対応できるはずがありません。世の中には自己中心的なクレーマーの思い通りにならないことがいくらでもあるのです。

 朝クリニックに向かう車中で、携帯電話に一人暮らしのKさんからとくに緊急を要するわけではない電話が入りました。今運転中なので10分ほどしてクリニックについたら折り返し連絡すると伝えても、話を止めてもらえません。何度か「もう切りますよ」と言っていたら、「私は今話がしたいのですっ!」と一喝されてしまいました。弾は前から飛んでくるだけとは限らないのですね。
2007年1月
 ボランティアの仕事を通して二人と知り合ってから、もうどれくらい経つでしょうか。マサオさん(仮名)は毎日、楽しいことの何倍も、嫌な思いをしています。でも彼はそれをハンデのせいにはしたくないと思っています。ミヨコさん(仮名)も毎日、これでもかこれでもかと辛い目にあっています。でも彼女はそんなことに負けてなるものかと頑張っています。
私はまったく耳の聞こえないマサオさんには、紙に書いて様々なことを説明することができますし、完全に光を失ったミヨコさんには、手に触れながら話しかけることもできます。でもそれは私が健常者だからできること。夫婦二人だけで一体どうやって意思の疎通を図るのでしょう?
 私は一度、どのようにするのか尋ねたことがあります。するとミヨコさんは照れて真っ赤になりながら、「オデコとオデコを合わせると、わかるんです…」と最後は消え入りそうな声で教えてくれました。
 夫婦というのは、それぞれの様々な思いを紡いで、一本の糸に縒り上げていく作業工程のようなものかも知れません。マサオさんとミヨコさんは、互いを看取る最期の日までに、きっと美しい布を織り上げることでしょう。
 独り身の私にとっては、とてもうらやましい話です。