2006年12月
 アメリカのように歴史の浅い国における美術館や博物館に対する思い入れの深さというものは、われわれには理解し難いものがあるが、古典に対する純粋な尊敬とか憧憬というよりも、自国に欠落した部分を補完する手段として尊重しているというのが正確なところだろう。とくにクリーブランド美術館の東洋館は、美術館とは名ばかりで、実態はほとんどが敗戦国日本からの略奪品と押収品の倉庫である。そのせいか、「クリーブランドの悲劇」とマスコミが一斉に報じたほどの一般市民の怒りと嘆きとは裏腹に、当局の対応は実にサバサバとしたものであった。事故調査委員会は、爆発は内部に運び込まれた大量の爆薬の同時爆発によるもので、すべての美術品が完全に粉砕され、修復はまったく不可能との報告を出してさっさと解散してしまった。保険会社もこの報告を受けて型通りの自前の捜査を行ったのち、意外なほどすんなりと巨額の保険金の支払いに応じた。

 私には犯人がわかっていた。奴の面影に向かって、「あのまますんなりと俺のところに来ていれば、こんなことにならなかったのでは…」と言うと、奴は懐かしそうな眼差しを一瞬宙に泳がせ、「まあな」とつぶやいた。しかし本当の驚きはまだ後に控えていた。
2006年11月
 釣り馬鹿日誌で、ハマちゃんが上司の佐々木さんに「ハマザキっ!」と怒鳴られると、人差し指を左右に振りながら「チッ、チッ、チッ、ハマサキっす」と訂正するシーンが、漫画が始まった当初は毎回のように出ていました。彼がこだわり人間であることをさりげなくアピールしていたのでしょう。
 私の「河内」という名前も、苗字ランキングで見ると日本で519位と意外と多い苗字です。しかし、そのほとんどは関西方面に多いカワチ、カワウチで、私のようなコウチはほんの一部に過ぎません。ローマ字表記をすると kouchi となります。そのまま読めばよいのに外人は「キウチェ」とか「コイカイ」と読みます。一体どうすればそんな読み方できるのか?と不思議に思いますが、いちいち訂正するのも面倒なので、最近では彼らにも分かりやすいように coach と書いています。するとコーチと正しく発音し、握手しながら"Oh coach, please teach me!"などと話しています。
 今までの人生で、最初からコウチと正確に呼んでくれたのは、高校のときの漢文の先生だけでした。それが驚きの記憶として残っているということは、いかに今までカワチ、カワウチで過ごしてきたかということでもあります。どう呼んでも振り向くし、俺は本当はコウチだとも言わないので、間違ったまま覚えている人は多いのではないかと思います。ちなみに車で野菜を売りに来るオバサンは、朝早くから大きな声で「コウナイさんっ!」と呼んでいます。
2006年10月
 父方、母方併せて、イトコが35人います。20年以上34人体制が続きましたが、一人とても元気な叔父がおりまして、35人になりました。これだけ大勢いると、世間一般で評価されるよりも、一族の中で浮かび上がるほうが大変です。年齢も幅広く、上のほうはもう既に孫がいますが、最年少はまだランドセルを背負っています。タイプも様々で、冗談ひとついわない石部金吉から、喫茶店で大真面目に「チョコレートサンデーのホット」などと注文する御仁まで、各種取り揃えております。もっとも、本人は、べつに存在感をアピールするつもりではなかったようです。いまだに冷たいチョコレートサンデーが来たのは、店が悪いと思っているのでしょう。

 他人とも家族とも違う、渚のような人間関係。近すぎもせず、遠すぎもしない微妙な距離感。昔の日本では、子供たちはこうした孵卵器の中で様々なことを学び、覚え、鍛えられて、社会へと巣立っていったのです。

 最近は英才教育ブームです。語学や音楽などを教え込むには、早ければ早いほど良いということが広く知られてきたためでしょう。人間としての基本的ルールもまったく同じです。喧嘩をしても相手を傷つけない手加減、お年寄りを労わる優しさ、周りの人々に対する思いやり、気配り。幼い柔軟な心に、こうした最も大切な事柄の数々を、理屈ではなく自明のこととして植え込む機会を、核家族化は次々と奪っていきました。そして、今や・・・
2006年9月
 先日ちょっと嬉しいことがありました。

 理学療法のスタッフの報告によると、かかりつけの患者さんが、「シーツに黒いところがあるから、取り替えておくように」と注意してくれたそうです。「言いにくいことを敢えて私たちのために注意してくれて、とても嬉しかった」と、彼女は話していきました。治療する側される側の垣根を乗り越えた、家族的な人間関係が築かれたことを肌で感じて、彼女は非常に感激したのだそうです。

 私はまた、そういうことを喜べるスタッフが育ってくれたことに、ある種の感動を覚えました。開業してからずっと、私はスタッフにたった一つのことを言い続けてきました。それは、「医療はチームワークである」ということです。このトップページコラムの記念すべき第一回目にもその言葉を記しています。

 私には跡取りがおりませんし、この場所も借り物です。私にはこのクリニックを私物化するつもりは最初からありません。医療機関というのは、理念を同じくする者たちの共有物ですから、その理念が代々受け継がれて行けばよいと考えております。ご自分もチームの重要なメンバーの一人である、という患者さん方の建設的なご意見が、この組織を更なる高みへと導いてくれるものと思います。
2006年8月
 さてここで問題です。月菜、柊馬、奏音、耀世、それぞれなんと読むのでしょう?これは予防接種の際に私の目に付いた子供たちの名前で、ルナ、ショウマ、カノン、アヤセが正解です。いささか劇画チックではありますが、若いお父さんとお母さんが頭を絞って、少しでも格好良さそうな名前をつけようと奮闘している、微笑ましい情景が目に浮かびます。

 わが国では益々深刻化する少子化の原因を、結婚しようとしない、あるいは子供を産もうとしない女性に帰する論評が数多く見られます。出産により社会参加の道を閉ざされる。肉体的にも精神的にも女性のみに負担がかかる。収入が減少し生活が厳しくなるなどの、子供を産むことのマイナス面が必要以上に強調され、出産、育児に適した社会環境を早急に整備すべきとの意見を、やたら目にすることとなります。

 私はこうした見解に若干の違和感を覚えています。本当に女性は社会が十分にお膳立てをしなければ子供を産もうとしないのか?本当に女性は生活レベルが落ちることを恐れて出産を避けるのか?本当に女性は育児の喜びよりも社会で活躍する満足感を優先するのか?

 私はそんなことはないと思っています。女性はそんな利己的な存在ではありません。この件に関しては、いずれまた述べさせていただきたいと思います。
2006年7月
 箱根に行ったとき、展望台にいた若い父親が、芦ノ湖と自分の子を交互に指差して、「あれは芦ノ湖、これあっしの子」さらに続けて、眼下の大涌谷と奥さんを交互に指差すと、「あれは大涌谷、これは迷惑だに」

 みんなが笑うものだから、お父さんは益々調子に乗って、たまたま飛んでいた飛行機と自分を交互に指差して、「あれは飛行機、これは屁こうき」うーむ、不覚にもこれには思わず吹き出してしまいました。吹き出すといえば…

 それは研修医の頃の話です。医局の隣に若手の医者たちがたむろする小部屋がありまして、その日もみんなの人気者の5年先輩のK先生が、輪の中心にいてみんなを笑わせていました。わたしはつぶつぶオレンジを飲みながら、K先生の正面の壁にもたれておりましたが、たまたま先生の話がツボにはまったのでしょう、ブーッと派手に吹き出してしまったのです。慌ててそこら辺にあったタオルで先生にかかったジュースを拭きましたが、恐縮しきった私を気遣って「いいよ、いいよ」とおしゃった先生の顔を見上げると、なんと!先生の鼻の頭にはオレンジのつぶが!さすがにそれだけは拭けませんでした。
2006年6月
 以仁会のクリニックには院長室というものがありません。

 今から30年ほど前、某国立病院に出向していたときの話です。私はそこの看護学校の最終講義で、医療構造の将来展望について語ったことがあります。当時の医療構造はまだピラミッド型で、頂点の医者の下に各医療従事者が階層的に並び、底辺に患者さんがいるという形態でした。意思の流れは上から下には命令、下から上には上申といったもので、階層がひとつ上がるごとに責任もまた棚上げされて行きました。私はナースの卵たちに、そのような医療構造は長続きするはずがないこと、君たちが責任ある立場になる頃には、医療構造はサークル型に変貌しているであろうことを熱く語りました。サークル型というのは中心にいる患者さんの周りに等距離で医療従事者が並び、意思伝達は横に、相談・依頼という形で行われる形態であること、この形態が成功するためには、各人がそれぞれの守備範囲の仕事に責任を持って、お互い力を合わせて努力することが必要であることなどを、松岡修三のように熱く熱く語りました。

 開業に際し、自分のポリシーを言葉だけではなく実際の行動で表わすために、スタッフの休憩室にはかなりのスペースを割きましたが、私は院長室を作りませんでした。その伝統は小中台クリニックにも引き継がれています。ただし、ひとつ困ったことは密談が出来ないということです。うちのスタッフは私の秘密を妙に良く知っています。
2006年5月
 勤勉であること、正直であること、親切であることなどは、万国共通の美徳であると思います。ところが以前アメリカの友人と話していて「ヘーっ!」と思ったのは、米国ではタフであることが立派な美徳であると聞いたときでした。

 確かにわが国のように、自然も人間もこじんまりとしていて、予定調和的安穏さの中にはぐくまれた国民性と異なり、自然も人間も荒々しく、弱肉強食的緊張感の中で形作られた米国の国民性においては、より良く生きる智慧としての美徳のなかに「タフであること」が入っているのは、当然のことと思われます。

 口角泡を飛ばす激しい応酬の後、肩を叩き合って互いの健闘をたたえあうアメリカ人の姿をしばしば目にします。タフネゴシエーションの相手を尊敬し、高く評価するというのは、それなりの米国独自の文化の積み重ねがあるからです。それはまた、唯々諾々と他人の意見を受け入れるイエスマンは侮蔑されるということに通じます。

 日本人は、相手の気分を害さないということを必要以上に優先し、自分の意見を控える傾向があります。(もっとも、最近では、自由という言葉を取り違えて、理不尽な権利を声高に主張する、鬱陶しい人たちも増えていますが…)待ったなしの国際化社会を迎え、日本独自の精神文化に基づいた言動が、思わぬ不利益をもたらす可能性のあることを、ビジネスマンよりも先ず政治家に心していただきたいと思います。
2006年4月
 A君とB君は同期入社です。あるとき、風邪をこじらせてA君が3日ほど会社を休みました。二人の上司はB君に、会社の帰り際にA君の様子を見てきてくれるように頼みました。その際、「彼は君と同様、わが社にとってなくてはならない人材だから。」と付け加えました。と、上司は思い込んでいたのですが、実際口にしたのは、あろうことか「彼は君と違って、わが社にとってなくてはならない人材だから。」でした。風邪が治ってA君が出社したとき、B君の姿はもうありませんでした。悪意のない、たった一語の言い間違えが思わぬ結果を招いたことになります。

 一語の重さと、思い込みの恐さを伝えるエピソードですが、逆の意味で、一語の深さを思い起こさせる言葉に「大丈夫」があります。人間生きていれば、痛い痒いなどの色々な症状が出ます。ただしその中で病的なものはほんの一部で、治療を要するのはさらにその一部に過ぎません。したがって、何か訴えがあったときに、大丈夫であることのほうがはるかに多いのですが、問題は大丈夫ではない場合です。その場逃れの安易な慰めではなく、心の奥底からの共感を伴った「大丈夫、心配ない」という先達の一言が、医学の常識を超越した奇跡を生み出す瞬間を、私はいく度となく目にしてきました。自分も早くあの一語を発せられるようになりたいと思いますが、なかなか先達と同様の人材にはなれません。
2006年3月
 私は一日中パジャマでいられたらそれがなによりで、こと服飾に関してはセンスのかけらもありません。そのとばっちりを受けているのが、「私を取り巻く女性たち」で、小さいときから私に洋服を見立ててもらったことがありません。それはある意味幸せなことだったのかもしれませんが、それなりの年頃になれば本人もそれなりの格好をしたいだろうし、こちらもそれなりの格好をさせてあげたい。今回たまたま姪が社会人になったので、その祝いにひとつのサプライズを思いつきました。私は日頃からプロの仕事に敬意を払っているので、スタイリストやコーディネーターに100%お任せして、頭のてっぺんから足の先まで全部取り替えてもらおうと考えたのです。もちろん本人には内緒です。本当にいい伯父さんですね。

 品揃えが多いのはデパートだろうと思って、まず若い人向けのIにそういうサービスをしているか問い合わせました。答えは、専属のスタイリストなどを抱えていないので、ご要望には応じかねるとのことでした。MもTも同じような理由で断られました。世の中には娘のために大枚をはたきたいお父さんは沢山いるだろうに、デパートともあろうものが折角のビジネスチャンスを逃していることがとても不思議でした。

 結局姪は自分の気に入ったものを自分で選ぶことになりました。センスの悪い伯父さんは連れて行ってもらえないことになりました。
2006年2月
 K君は運動が大の苦手です。寒さも大嫌いです。しかし、まずいことにお父さんはサッカーが大好きです。あわよくばK君をサッカー選手に育て上げたいと思っています。今日は日曜日、お父さんがサッカークラブの指導に来る日です。でも、今朝は今年一番の冷え込み。朝錬はつらいなあ、足が痛くならないかなあ。あれ、もしかして足が痛いかも。そうだ、足が痛いに違いない。痛い、とても痛いんだ。僕はもう歩けないほど足が痛いんだ。

 かくしてK君は、不自然に足を曲げたまま、お父さんに背負われて当院を受診しました。K君は今までにも、何かにつけ医者を受診することが多いので、大体どのようなことをするのかはわかっています。ところが当院では勝手が違っていました。いつ頃から、どこに、どのような症状が出ているか聞く前に、院長は泣き喚くK君を無視して、膝の周りをさすりながら、知らぬ間に足をまっすぐにしてしまいました。あれ、痛くないぞ。でもそれをお父さんに気付かれたらまずいんだ。K君は余計大きな泣き声を立てました。

 「…それでも私は、子供がつらいと言ったときに、ご両親が一生懸命手当てをしてくれたと言う実績が大事だと思うのですが…」と、院長の声がします。お父さんはK君を家に連れて帰り、風呂から出たあとK君の痛がるところに軟膏を擦り込んで湿布を貼ってくれました。K君はお父さんのその姿を見て、もう二度とウソはつくまいとひそかに思ったのでした。
2006年1月
 学生の頃、どの学年にも何によらず常にみんなの一歩先を行っているという感じの人間がいたものです。入学当初のI 君がまさにそうでした。余分なことは一切話さず、酒も博打も女もすでに飽きたといった、けだるい大人の雰囲気を漂わせていました。先輩たちも彼にはいつも一目置いていたような気がします。

 ある夏の日、練習を終えてみんなで飲みに行くことになりました。当時流行のコンパに繰り出したのですが、コンパというのは今で言うカクテルバーで、学生のわれわれにとってはとてもオシャレな空間でした。なじみのない新入生は周りをキョロキョロみまわしていましたが、さすがI 君は慣れているらしくけだるそうにタバコの煙を燻らしていました。席について店員が順番に注文を聞いていきましたが、I 君の番になったときの彼の注文は平然と「カクテル!」あたりが一瞬シーンとなりましたが、店員が何度尋ねても、I 君はためらわずに「カクテル!」

 先輩が適当に見繕って彼の分を頼んで、その場は事なきを得ましたが、その後栃木から出てきたばかりの純朴なI 君を、いっぱしの大人に育て上げたのはわれわれの功績です。ちなみにその後彼は標準語で余分なことばかり話すようになりました。