2005年12月
 奴との慌ただしい再会を果たしたのは、出航前の横浜のとある埠頭であった。
「よりによってクリーブランドとはな、たちの悪いやつに引っかかったらしいと聞いたが」と私が話しかけると、奴はあっけらからんと、「あちらさんにも価値の判るやつがいるってことさ、気にしちゃあいねえよ」と答えた。私が「言葉で苦労するぞ」と言うと、例の人懐っこい口調で、「なあに、いよいよとなりゃ身振り手振りで何とかなるもんさ、もっとも壷に手はねえがな」と低く笑った。聞きたいこと、話したいことは山ほどあるはずなのに、もどかしい思いの中、砂のような時間が音も無く過ぎていった。

 遠くからクレーン車の響きが近づいてきた。「もうけえんな、関係のねえ奴がこんなとこにいちゃいけねえ」と奴は言った。私が返事を言いよどんでいると、さらに続けて「善悪なんてつまんねえ事にこだわってちゃいけねえよ」と、奴にしては珍しく少し恐い顔をして不思議なことを言った。

 その言葉の真意を問い質す間もなく別れたのは、またしても木枯らしの吹きすさぶ師走の午後であった。「クリーブランドの悲劇」の第一報が伝えられたのは、それから三ヶ月ほど過ぎた春の雪の舞い散る寒い晩であった。
2005年11月
 私は、そこらへんでひと山いくらで売っている普通のおじさんです。うちのスタッフも同様で、みんな地味で平凡な人生を歩んできた、当たり前のおばさんとおねえさんばかりです。たまたま縁あって一緒に仕事をすることになりました。ところが、そんな普通の人間たちに「味の素」が振りかかったら、エライことが起こりました。過激な戦闘集団が出来上がってしまったのです。

 仕事というのは、人生のもっとも華やかで充実した時期の貴重な時間を使うわけですから、リーダーの使命はいかにメンバー全員に、生き甲斐ややり甲斐を与えられるかというところにあります。おこがましい話ですが、私はしばしば監督時代の星野仙一と自分の姿をダブらせていました。

 私も年のせいか、最近では自分のことを評価されるより、スタッフを褒められるほうが何倍も嬉しく感じられるようになりました。かかりつけの患者さんが言います。「おたくの職員は一生懸命だから、見てて気持ちがいい。」と、さらに続けて「頑張っていることがわかるから、待たされても文句が言えねえや。」また別の患者さんはひとしきりスタッフを褒めた後で、「院長はやや難ありだけどね。」と憎まれ口を叩いていきます。私はニコニコして聞いています。

 言い忘れましたが、味の素の主成分は「チームワーク」です。
2005年10月
 先日久しぶりに同級生が集まりました。その席で、「われわれにはもう厄年がない」という話が出て、それは電車の中で席を譲られるより悲しい話だということになりました。その後しばらく、「収納してからちょろっと尿が漏れる話」とか、「患者のノドを診たことをすぐに忘れて二度も診て、それをごまかすのに苦労する話」とか、実年齢にかかわる悲しい実話シリーズで妙に盛り上がりました。もちろん非公開部分のほうがはるかに面白いのですが…。

 そういえば研修医の頃、夜中の勤務室で偶然多くの同級生が顔を合わせ、みんな慢性的な寝不足で妙にハイになっていたため、誰が一番汚い話ができるかという競争をしたことがあります。最初に話したのが木更津の證誠寺の息子のT君でした。彼は「地下鉄のホームの痰壷を、ストローでじゅるじゅる吸っている男がいました」という作品を披露しましたが、誰もそれにかなう話はできないということになって、T君があっという間に優勝となりました。

 どうも同級生というのは集まると役に立たない話ばかりするものです。医者の平均寿命は国民全体の平均より7年も短いそうで、それだけ過酷な勤務の中にいると、この役に立たないバカ話がストレス解消の何よりの妙薬になっているのでしょうね。
2005年9月
 姪に家庭教師をしたことがきっかけで、高校の後輩向けに英文解釈の参考書を書いたのは6年ほど前のことです。初めて英語に接した中学校1年生のときにつまづいて以来、英語に関してはいわゆる落ちこぼれの状態が大学受験まで続きました。浪人してさすがにこれはマズイと一念発起し、自己流の英文解釈法を編み出したのは予備校に通い始めて半年ほどしてからのことです。
その後成績はとんとん拍子に上がり、2年目には受けた学校すべてに合格することが出来ました。

 そんな画期的な方法を長いこと忘れていましたが、久しぶりに姪の受験勉強で試したところ、自分以外にも効果があることが確認されました。折しも母校の都立高校に伝統復活の機運がみなぎり、それに対する応援の意味も含めて仕事の合間に慣れないワープロに向かうこととなりました。
書き始めると連鎖反応のように次々と内容を思い出し、わずか二週間で一気に書き上げてしまいました。もっとも、A4版で60ページほどですから、その気になれば一日で読み終えることができます。何度か繰り返し読むうちに知らぬ間にコツが身につくことでしょう。

 キャッチフレーズは「学問に王道あり」で、書名は「口コミ英文解釈」です。受付で無料でお分けしておりますが、残部僅少ですからお早目にどうぞ。
2005年8月
われわれが受験生の頃は、今と違って全国一斉模擬試験というのは旺文社のみが行っていました。高校3年生の秋、すなわちほとんどの受験生が参加する一斉模試で、二位以下を大きく引き離して全国一になったのは、東京の某女子高の女の子でした。世の中は広いようで狭いもの、その女の子が母の同級生の娘さんであることが分かったのは大分経ってからです。歳月は流れ、私と彼女は千葉大の同窓生となり、私は彼女の完璧なノートのおかげで、山登りとバレーボールにうつつを抜かしていた割には留年することもなく、無事卒業することができました。

さらに歳月は流れ、彼女は医者の世界では知らぬ者のない名医となりました。なにせ、彼女が一代で築き上げた皮膚科学教室が、「医者のかかりたい皮膚科ナンバーワン」に選ばれたのです。本当に同郷というのはありがたいもので、私の開業当初から力を貸していただいています。これまでにもトップページコラムに登場していただきたかったのですが、有名人だけあって彼女の外来予約は、同業者の子弟や本人などですぐに一杯になってしまいます。見せびらかすだけの状況になってもいけないと思って我慢してきましたが、私も年をとって抑制が効かなくなりました。
2005年7月
「先生のライフワークは何ですか?」と、急に尋ねられたことがあります。予想外の質問で、とっさに「しみじみほのぼのの復活です」と答えましたが、質問をされた方は何か医学的な答えを期待しておられたのだと思います。それこそ彼にとっても予想外の回答で、なんとなくちぐはぐな雰囲気のまま、その話はそれで立ち消えになってしまいました。
しかし今にして思うと、急な質問の割には、実に的確な返答をしたものだと思います。当時から現在に至るまで、しみじみほのぼのとした日本の美風が失われてゆくことを、深く憂いていることは変わりません。ふたたび同じ質問をされたら、今度は胸を張って堂々と、ひと演説ぶつことでしょう。

最近実に爽やかな文章を目にしました。医師会だよりに、小児科の原木真名先生が書かれた文で、一般の方々の目に触れる機会はまずありません。かかりつけの女医さんと子供たちのほのぼのとした心のふれあいが、自然な筆致で描かれており、読んでいるこちらの胸まで温かくなります。
私が長々と演説を述べるより、よほど「しみじみほのぼのの復活」に寄与しそうです。原木先生の許可を得て、ためになる話に掲載させていただきました。


"ためになる話"の「原木先生のあとがき」
 
2005年6月
 私の友人に某澤田という男がいます。クラークゲーブル似のスポーツマンで、頭も性格も良く、おまけに診療所を8件も持っていて、私と異なり経営の才覚もあります。申し分のない男ですが、ただひとつ致命的な欠点を持っています。それは、とても足が臭いということです。なにせ彼の脅し文句が、「靴脱ぐぞ!」というのだから本物です。

 病気というのは季節商品なので、毎年同じ時期に同じような顔ぶれが受診します。梅雨時には蒸れやすいせいか、足や体のニオイを気にして来院する若い女性が急に増えてきます。その大多数はニオイが無いか、あってもほとんど気になる程度ではありませんが、悩み方は実に深刻です。こうした実体の無いオバケに振り回されるような状態を「自己臭症」といいますが、一度思い込むとなかなかそこから脱却し難いようで、いくら説明しても毎年受診します。

 ある年、ふと気づきました。押してだめなら引いてみよう。いくら気にするほどのニオイは無いといっても、本人が夜も寝られないほど気にしているのならば、それはあるという前提で対処したほうが良いのではないかと。そして複合治療の過程で登場するのが某澤田の話です。とうとう澤田の足も世のため人のためになるときが来ました。
2005年5月
 T君は5歳になったばかりの、サンタクロースの存在を固く信じている男の子です。ご他聞に洩れず好奇心の塊で、あれは何?これは何?と次々と聞いてきます。私は忙しくとも子供の質問にはしっかり答えることを心掛けていますので、彼が聴診器を指差して「これは何なの?」と尋ねた時、「これはね、君が秘密にしていることも全部聴こえる器械なんだよ。」と答えました。すると彼は一瞬困ったような表情を浮かべると、「ママがね、目玉焼きを作ってね、卵がひとつあまってね、ママがそれを暖めてたらヒヨコさんになってね、どんどん大きくなってぼくになったの。」と、彼にとって最大の秘密を明かしてくれました。そして「それもわかるの?」と訊ねるので、「今までよく聞こえなかったけど、今の話でよくわかったよ」と答えると、とても嬉しそうな笑顔を見せました。

 私は何の作為も打算もない子供の笑顔が大好きです。それでも、T君が天使のような笑顔を見せた際の、彼の心の動きを把握できないことが心残りでした。あの笑顔は一体なんだったのだろう?きっと知らぬ間に私の心の周波数が変わり始めていたのですね。私は心の垢を落として、子供の純真な心を再びきちんと受信できるようになりたいと思いました。
2005年4月
 医師会でロゴマークを作成することになり、広報委員がいくつかの候補作品を作ることになりました。千葉市は民間航空の発祥の地でもあり、更なる飛躍への思いをこめて、私は天翔けるペガサスをモチーフに作品を仕上げました。
 締切日、どうせ笑われるだろうなと思っていたら、案の定みんな思いっきり笑っていました。父は趣味で絵を描いていましたから、私のこの絵心の無さは母の血を受け継いだものに違いありません。母は鳥の絵を描くときは足を4本描いていましたし、牛の顔を描くときは角と耳の位置が逆でした。私が幼い頃、絵を描いていろいろ説明してくれましたが、私は余計わからなくなりました。

 母はおおらかな人でしたから、家の中には笑いが絶えませんでした。隣の家のお嫁さんはウチの笑い声を聞いて笑っていたそうです。何で笑っているのかわからないけど、あまりにみんなで楽しそうに笑っているのでつられて笑っていたとのことです。
 当時わが家は貧しさの絶頂期にありましたが、お金のない哀れさや惨めささえも可笑しくて、腹の皮がよじれるくらい笑い転げていました。危ない家族だったのですね。でも、経済的には一応豊かになった今、幸せって一体何なのだろうと考え込むことが多くなりました。
2005年3月
 私は物心ついた頃からの体育会系で、ひとつでも年上の人に対しては絶対に言葉を崩しません。クラブの先輩の前などに出ようものなら、いい年をこいて、いまだに脂汗を流しながら直立不動になります。われながら悲しい性ですが、この反動は当然のことながら年下に向かいます。世の中には男と女と年下の三つの人種がありますから、あからさまな人種差別が行われます。

 開業して間もないある日、ひときわ美しく品の良い女性が受診しました。チラリとカルテを見ると昭和28年生まれで私より4歳も年下でしたから、かなりぞんざいな口の利き方などしたのではないかと思います。それでも不思議だったのは、年下なのに妙な落ち着きがあり、まるで弟や息子を見るような眼差しで私を見つめるのです。それがTさんとの出会いでした。

 正月の国立劇場でTさんの日舞の発表会が開かれました。私は技術的なことはわかりませんが、美しさも華やかさも艶やかさも明らかに抜きん出ていました。「これじゃあ僕が勘違いを続けても当然だな」と思いました。と言いますのは、カルテの転記ミスで、昭和28年生まれだと思い込んでいた彼女は、実は昭和8年生まれだったのです。
2005年2月

 友達というものは年齢、性別に関係ないようです。ひょんなことから完全オリジナルのCDを出そうという話がまとまって、「ひょんの会」が始まりました。

 アシスタントディレクターのY君は一部上場企業のサラリーマンで、スラリとした長身のイケメンですが、私は彼ほど性格の良い20代の青年を見たことがありません。バンドマスターのRさんは30代の凄腕のキャリアウーマンですが、可愛らしい童顔なので私服でいるとどう見ても高校生です。ちなみに、まともに楽器がこなせるのは彼女だけなのでバンマスになりました。プロデューサーのK氏は肉体的にも精神的にも幅と奥行きのある40代の紳士です。天性のリーダーというべき人柄で、会の中心的存在です。そして天才シンガーソングライターの50代の私。以上が「ひょんの会」のメンバーです。

 パシリのY君が月に一回録音スタジオを予約して2時間ほど練習します。みんな多忙が忙しくて忙殺されていますが、何とか時間を作って集まります。本当は練習の後の一杯が楽しみだからです。飲み会は異世代、異業種交流会の様相を呈し、年をとっても続けたい楽しい会です。ん?もう年とってるか。


2005年1月

 西千葉駅の西口からまっすぐ海側に向かう道沿いには、何時の頃からかおしゃれな店が建ち並び、かってはハイカラ横丁、最近はマロニエ通りと呼ばれています。その道の突き当たりに、京成電車の線路を乗り越える、歩行者専用の陸橋があります。

 名前は昔から汐見橋といい、今でこそ立派な鉄橋になっていますが、私たちが学生の頃は隙間だらけのチャチな木の橋でした。

 私たちはその橋のそばの先輩の下宿に集まって、よく酒を酌み交わしました。
酔っ払って夜中になると、橋の上に整列して、京成電車が来るのを待ったものです。

 運転手さんもライトに浮かび上がる、大小長短太細直曲の銃口が自分を狙って一斉射撃を始めるのですから、たまったものではありません。

 夏ともなれば、当時の京成電車はクーラーがなかったため、窓を開けて走っていました。
流れ弾に当たった乗客の皆様、重ね重ねごめんなさいです。

 ごめんなさいついでに言ってしまえば、ほていやさんの駐車場の太いクサリをせーので飛び乗って切ったのは、私以下8名のバレー部員です。

 1台の小型車に全員乗り込んで逃走いたしました。
8人目はトランクの中でした。