2004年12月

 例の麻布十番の骨董屋で私を待っていたのは、済まなそうな店主の声だった。

「あれからすぐだったんですよ。前から目をつけていらした白金のほうのお大尽がお買い上げになられまして・・・」と、ここで店主は急に声をひそめた。

 「それがですね、壷をご自宅に届けた晩に突然ご主人が亡くなられたんですよ。
お代金はいただいておりましたから、別にこちらには被害があったわけではなかったんですが、なんとなく目覚めが悪いもんで、ゴタゴタが片付いたころを見計らって思い切って買い戻しに行ったんですよ。そうしたら価値のわからない人は恐いですね。
息子さんて人が、もう既に二束三文で売り払ったって言うじゃありませんか。
私ビックリしましてね、買い主の住所を聞いて尋ねて行ったんですよ。
ところがそんな住所は見当たらず、要するにたちの悪いのに引っかかったってことですかね。」

 ため息まじりの挨拶を交わして外に出た私の耳に、どこからともなく、「なあに」と聞き覚えのある声がした。

 「壷は天下の廻りものってか、またどこかで会うこともあるだろうよ。」

 私はコートの襟を立てると、身震いをひとつして、黄昏の木枯らしの街を家路についた。


2004年11月

 11月16日に開業して丸14年になります。
開業に際し諸先輩方から様々なアドバイスを頂きましたが、その中で事あるごとに自らを戒め、今や私の体の一部となっている言葉があります。

 それは「数を追い求めてはならない」というものです。
「患者数を何人にしたいとか、収益をいくらにしたいとか、数を追い求めると心が卑しくなる、目が曇る。自らの信ずるところを誠実に行っていけば、数字は必ず後からついてくる。」
と先輩はおっしゃいました。患者数の伸び悩んだ開業当初、正直不安に駆られたこともありました。
しかしそのような時、この言葉が大きな心の支えとなり、頑張ってこれたことは事実です。

 今、足元を振り返るとき、そこに積み重ねられた数の重さに内心たじろぐこともあります。
もとよりこのようなことが私一人の力でできるはずはありません。良きチームメートに恵まれ、良き伝統が引き継がれて初めて達成できる数字なのだと思います。

 それは人に誇示すべきものではありませんが、苦労をともにしてきたメンバー全員が誇りを抱くことのできる実績ではあります。

 あれから14年。いま私が、先輩から贈られたあの言葉を、深い感慨をこめて、同じ道を歩まんとする後輩に贈っています。

2004年10月

 岡田先生は千葉大の呼吸器内科の前助教授で、肺循環の第一人者ですから、彼を頼って遠隔地から患者さんが集まります。大学時代、心カテを一緒にやっていた縁で、10年以上にわたり以仁会の外来を手伝ってくれました。

 今年の4月に佐倉で開業しましたが、彼の人柄もあいまってすでに待合室はいつも患者さんで溢れかえっています。

 実は、岡田先生は今でも土曜日の午後に、当院に患者さんを診に来てくれています。経済的なことを考えれば、掻き入れ時の土曜日には、自分のクリニックで仕事をしたほうが、はるかにコストパフォーマンスが良いに決まっています。

 稲毛は東京駅からJR一本で、おまけに快速も停まるため、遠くから受診される患者さんの利便性を考えてのことでしょう。呼吸困難の患者さんには佐倉は遠すぎるかもしれません。
 それでも、それを実際の行動に移せるドクターが何人いるでしょうか?

 「世の中、金じゃないから」、はにかんだように彼の背中が言っています。
それに気付かないような顔で、相変わらず二人で馬鹿話をしては、下品な笑い声をたてています。

2004年9月

 茂原の山の上に、小さな美術館、「 as it is 」があります。
そこに並べられているものは、いずれも古く、美しく、そして乾いています。
水は優しい顔をしてモノの奥深く入り込み、内部からモノを崩壊させます。
水の浸食を免れたものだけが、時の試練に立ち向かうことを許されるのです。

 時はまた、その圧倒的な暴力性を以って、モノの贅肉を剥ぎ取り、削り去り、こそぎ落としてモノの本質を露わにします。ここに至って初めて、存在そのものが美しいという世界に入っていけるようになるのでしょう。

 芸術は、それを生み出す人間の、美的イメージの表出であるといいます。
音を用いれば音楽、色と形であれば美術、言葉ならば文芸ということですが、いずれも製作者としての人間の枠を超えるものではありません。

 「 as it is 」に来るたびに元気を取り戻せるのは、人間の営みを超越した自然のエネルギー、宇宙の叡智、時のはからい、といったものを、確かな手ごたえを以って実感できるからです。

 トップページコラムもだんだん神がかってきました。


2004年8月

 その場にいないと、あのおかしさはわかりにくい、といったことがよくあります。
不思議なことに、そうしたケースの主役は大抵4歳児です。

 このあいだも、苦虫を噛み潰したような表情の4歳児が受診しました。
診察が一段落したところで、「大きくなったら何になるの?」と尋ねると、母親が横から、「何にもならないんですって。無人島で一人暮らしして、一日中パソコンゲームをしているんですって。」と答えました。

 その時の彼の表情は、いま思い出しても笑えてくる優れものでしたが、主役はそのあとに、6歳の姉と入ってきた4歳児。

 やおらサッと姉のほうに手を伸ばすと、「O子です。」と皆に紹介しました。
その後もさんざんみんなを笑わせてから、立ち去るときに言ったひとことが、「ありがとう。楽しかったよ。」
 当院ではしばらく、この「ありがとう、楽しかったよ」が流行りました。

2004年7月

 昭和40年代前半、人間だけではなく、総武線も地に足がついていた頃の話です。
当時の西千葉駅は、映画に出てきそうな古い木造の駅舎で、終電が終わると改札口は開け放したままにしてありました。みんな夜中は跨線橋を通って自由に往来していたのです。おおらかな時代でした。

 ホームには風雪に晒されて骨董品のようになった木のベンチが並んでいました。
背板には、今や全く目にすることのない、明治や森永の琺瑯(ほうろう)の看板がくくりつけられていましたが、なぜ乳業関係が多かったのかは不明です。

 30年以上前の話ですから、もう時効ということで告白しますと、千葉大の学生はどのクラブでも部室のベンチが傷んでくると深夜の西千葉駅に調達に来るのです。
われわれは一度、華道部の女の子たちと鉢合わせをしたことがあります。

 ところで、今これを書きながら不思議に思うのですが、あれだけ古いベンチの盗難がありながら、西千葉駅のホームに新品のベンチが入ったのを見たことがありません。

 ということは西千葉駅の駅員も夜中になると・・・


2004年6月

 当院における海老様の人気は絶大なものがあります。海老様は幼い頃に両親を亡くされ、親戚の手によって育てられました。戦争にも二度駆り出され、若くして始められた会社が倒産するなど、あらゆる苦労を経験されております。そうしたご苦労の最大のものは、長年苦楽をともにされた奥様が病に倒れ、寝たきりになられたことです。 海老様はいつも自然体です。飄々と、淡々と人生を歩まれておられます。

 それでも、奥様に対するほとんど超人的といっても良い介護ぶりを目にする時、人を本当に慈しむことができるのは、実はごく限られた選ばれた人間だけなのではないかという感慨に襲われます。 愛する家族のためですから二、三週間のことであれば誰でも寝ずに頑張れるでしょう。でも、それが一ヶ月になり、一年になったとき、普通の人であれば誰でも音を上げるのではないでしょうか。

 誰もそれを責めることは出来ません。 ところが海老様は10年以上にわたりその献身的な介護を、実に軽やかに、楽しげに続けておられるのです。ご自身のご苦労をお話になる場合も、なんのてらいもなく、ほとんど爽やかと言っても良いような語り口で話されます。 海老様が尊敬を集めているという点で、ウチの女性スタッフたちの男を見る目は確かであると安心していられます。でも、お願いだから比較しないでね。 

 87歳の海老様に敬意を込めて・・・


2004年5月

 日本の「大和魂」に相当する言葉は、アメリカではなんでしょう?と尋ねると、ほとんどの人が、「フロンティアスピリット」と答えます。それを日本語にすると何と言いますか?と重ねて尋ねると不思議なことにほぼ全員が「開拓者精神」と答えます。

 冷静に考えるとその間違いはすぐわかります。フロンティアとパイオニアは中学校で習う単語だからです。それにもかかわらず「辺境精神」とは誰も言いませんし、「パイオニアスピリッツ」という言葉もあまり耳にしません。

 日米で言わんとすることは同じでも、表現が異なるのはなぜでしょうか?
日本では「意識が内に向く」ために、その場に存在する自分自身である「開拓者」がクローズアップされるのに対し、アメリカでは「意識が外に向かう」傾向が強いために、自分が立ち向かうべき相手である「辺境」が強調され、フロンティアという言葉が選択されたのではないでしょうか?

 「東洋と西洋」というのは私の思考訓練のテーマのひとつです。皆さんも御一緒にどうですか?


2004年4月

 子供は誉められるのが大好きです。「ノド見せ名人」の称号を与えると、次回からは大きな口を開けながら診察室に入ってきます。「腹出し博士」とか「患者の鑑(かがみ)」とか、色々な称号を考え出さなければならないので、家庭医というのもこれでなかなか大変なものがあります。

 子供はまた、思いがけないパフォーマンスで笑わせてくれます。
この間も診察室の外でスゴい勢いで大泣きしている子がいました。外でこうだから中に入ったら一体どうなってしまうのかと身構えていると、一人でヒョコヒョコ入ってきて、ぺコリと頭を下げると、「コンニチワ」だって。思わず「君って本番に強いタイプだねえ」と言ってしまいました。

 また先日は、4才の男の子の予診票に「具合が悪い」と書いてあったので、その子に向かって「具合が悪いって、どんな感じかな?」と尋ねると、
「えーとね、えーとね、ぐたいてきにいうとね・・・・・」

 診察中、私が突然意味もなくニタニタしている時は、ほとんどが思い出し笑いですから皆さん気になさらないで下さい。


2004年3月

 ある朝クリニックに到着すると、妙にザワついています。

 大吐血の患者さんが受診してすぐに意識レベルが低下し、血圧測定不能、脈も触れず、呼吸も一時停止したとのことです。慌てて救急室に行くと、患者さんは手術台の上でトレンデレンブルグの体位をとり、気道と血管は確保され、点滴が行われていました。早出のナースたちの迅速な救命救急処置により、患者さんの意識はすでに回復し、血圧も正常化していましたが、状況をよく理解できない様子でした。直ちに県立救急センターに緊急搬送としましたが、あとで入った連絡では、胃体中部に巨大潰瘍があり、太い血管が露出して拍動性の出血が認められたとのことです。

 当院受診時の検査結果では、ヘモグロビンが7.4gと正常の半分まで落ちていました。体の血液の3分の1が急に失われると命は助からないと言いますが、実に2分の1の出血が急激に起こっていたわけで、救命救急処置以前の問題としてよく受診できたものだと改めて感心しました。

 今回は私は何の活躍もできず、もしかするとチームワークの窮極の姿というのは、自分がいなくても何も変らないということではないかと、たくましい(じゃなかった)たのもしい当院のナースたちの後ろ姿を見ながら考えました。


2004年2月

 S君はとても気持ちの優しい子です。大好きなお母さんの具合が悪いと心配でたまりません。

 母親の診察中、息をころしてジッと私を見つめています。
その視線にせかされて手早く診察を終えると、私はまずS君に、「大丈夫だよ。お母さん、すぐに良くなるから心配ないよ。」と声を掛けます。

 とたんにS君の顔がパッと明るくなり、嬉しくてもうどうして良いのかわかりません。
照れてお母さんを叩いたりします。

 でも、母親は私の言葉が単なる気休めに過ぎないことを知っています。
私も彼女が、残された日にちを毎日いく度となく数えていることを知っています。

 「ほら、お母さん、もうこんなに元気になっちゃった。」母親の声が待合室から聞こえてきます。

 私と彼女のこのコンビプレーが、一日でも長く続けられることを、私は心の奥底から、強く願っています。


2004年1月

 主として年配の方ですが、受診間隔が開くと「御無沙汰してしまって」と申し訳なさそうに言われる方がいます。

 そうした時には、「医者と坊主は、なるべくご無沙汰したほうが良いのですよ」と言います。

 慣れない患者さんは一瞬 ビックリ したような顔をされますが、人には、それぞれの事情があるのです。医学的な要請がすべてに優先されるわけではありません。

 酒でしか、まぎらわすことのできない深い悲しみに耐えている人に誰が「飲むな」と言えるでしょう。御自分の薬代よりも子供の洋服代のほうが大事なことだって、ときにはあるはずです。

 私は、こうした考え方を「患者に対する安易な迎合」とは思っていません。
ただ「世の中はこういうものだ」と思っているだけです。

皆さん、今年は私が干上がらない程度にご無沙汰しましょう。