2003年12月

 麻布十番の骨董屋の薄暗い二階で、奴は私を待っていた。

 「おせぇじゃねぇか、600年待ったぜ。」
 「すまねぇ。産まれるのにちっと手間取っちまった。」

 奴は上目使いでチラリと私を見上げると、「まぁ座れ」と低い声で言った。

 目線を下げた私の前には、実に素晴らしい景色が広がっていた。
肌は一面に白くカセており、あるかなしかのかすかな紅が、適度な間合いで器肌に浮かんでいた。

 信楽は火色が命と言われるが、そのようなあからさまな緋色ではなく、古武士が時折垣間見せる男の色気に通ずる控え目な紅であった。

 こんな貧乏医者に手が出せる額ではないことは、奴も承知していた。

 「待つさ」と奴は言った。「早く大きくなれよ」とも言った。

 それ以来、私は奴に会っていない。


2003年11月

 千葉大学の薬学部の女子学生たちが、交代で日曜日の薬作りを手伝ってくれるようになって、もう10年になります。

 ある年のこと、当番の学生たちのグループが、卒業旅行でイタリアに行くことになったそうです。その際、当院の仕事に穴を空けてはいけないと、クジを引いて、当たった一人が留守番に残って薬局業務をやりに来たということです。私はそれを何年もしてから人づてに聞きました。

 よく「近頃の若いモンは・・」と嘆く声を耳にします。私も何度か「まったく近頃の若い連中ときたら・・」と怒りをあらわにしたことがあります。しかし、この一件を経験してから、私は安易にこの言葉を口にできなくなりました。

 ステレオタイプなものの見方を排すると、本当のところが見えてきます。不心得者も増えていますが、彼らよりもはるかに多くの若者が真面目に頑張っているのは事実です。

 彼らに向かって「近頃の若いモンは、偉い!」と言ってあげたい気がします。


2003年10月

 I さんの米寿記念の七宝の個展が無事終了しました。     

 本人もまわりも、口には出さないものの、これが最後の個展になると思っていました。それでも、開催が決まってからの一年間、主治医として大したことが出来たわけではありません。
携帯の番号を教えて、24時間ONにしておいた事ぐらいです。

 当日会場に到着するとIさんの姿が見当たりません。
画廊の女主人らしいスラリとした品の良い女性にIさんの居場所を尋ねようと近づくと、なんとそれがIさんでした。

 「決める時は決めるぜぃ!」といった感じでした。

 涙を浮かべて挨拶を交わす二人の姿は、森光子と東山紀之のようでした。
 (すみません。言い過ぎました。)

 大きな物事を成し遂げた充実感が、彼女を一層美しくまた、若々しくさせていたのは間違いありません。

 私もお相伴にあずかって、ささやかな達成感を味わわせて頂きました。


2003年9月

 開業して13年もたつと、それなりの歴史めいたものが積み重ねられていきます。

 先日もかかりつけの女の子が久しぶりに受診しました。

 「私、今度、結婚なんてことしちゃったりして」と彼女。
 「えーっ!ちょっと驚いたりしちゃったりして」と私。

 予防注射でヒーヒーいっていた子供が、一生懸命勉強して一流大学に合格し、今では霞ヶ関のエリート官僚です。

 医者と患者の関係は病気を仲立ちにしたものだけではありません。この女の子だけではなく、成長の過程を(普通では考えられないほど近い距離から)つぶさに目にすることが出来る子供たちは大勢います。家庭医に与えられた幸せのひとつです。

 診察したところ、特に具合の悪いところもありませんでした。おそらく、さりげなく結婚の報告に来たのでしょう。もちろん薬は出しませんでした。


2003年8月
TOPページコラムのスタートです。

 コンピューターに関しては「歩く化石」のような私でも、このような立派なホームページを開設する事が出来ました。これもひとえに御協力をいただいた皆様のおかげです。
 つくづく、人間は一人では生きて行けない存在なのだと思います。

 学生時代は「バレー部附属医学部」の日々を送っていました。
知らぬ間にチームプレーの重要性が体に染み込んでいったようです。

 医療の世界では、特にチームワークが大事です。手強い病気を相手にするとき、個人の力だけで出来る事はたかが知れています。複数の人間が共通の目的に向かって力を合わせる時、そこに初めて不可能を可能にするような爆発的な力が生まれるのです。そうしたマジックを可能にするのがチームワーク。

 そして、その根本理念は「一人はみんなの為に、みんなは一人の為に」ということです。

 患者さんのお一人おひとりが、ご自分もチームの重要な一員であるということを自覚されたとき、そこに新しい何かが生まれるものと信じます。